昭和39年12月30日 夜の御理解
神様と私達の仲、私と、例えば皆さんの仲、そういうものが、順調に、谷も溝も無い仲で、育って行く、見事に例えば育った、杉の木なら杉の木の年輪がです、ね、一年一年あの輪をかいて、一年一年大きくなっておるのが、あの切り口に見られるように、私共と神様の仲、私と皆さんの仲が、ああいう木の年輪のように、育ってまいりましたら、有難いなとこう思うですね。
椛目でもじっと色々考えてみますと、どんなに良い信心を致しておりましても、何か、先生が言うたことに腹かいて、ちょっとそこに虫が入ったり、ちょっと信心が緩んだりといったようなようなのがあるんですね、それが一つの年輪の、その中の一つの谷になったり溝にまではなっていませんに致しましてもです、やはり、まあ言うなら綺麗な板に割い、割いてもそこだけは、やはり使えないといったようなことになるだろうとこう思う。(?)年輪がです、一年一年この、輪が大きくなってまいりますように、えぇ、育って行かなければいけないと思う。
私は今朝から、本当に有難いと思うことがある。と言うのは、今朝、もう皆お取次ぎを終わってから、でした、一通り皆さん帰ってしもうて、(?)のそこのストーブの所でこう、暖をとっておられた。してこういうことを言われるんですね。「昨日のお鏡つきに、あんまり沢山お鏡を、一人でこう丸めなさった。それで、汗が出てからそのまましとったけん、風邪が余計酷うなっておった」っち言うちからそこで言いよんなさるけん、私がこっからもう大きな声で言うんです、「あんたがそげなことじゃからおかげ頂かれん」という、「あげな大事な御用をさして頂いておってから、お鏡さんを、いわば丸めさして頂くような、ああいうおかげを頂いておってから、おかげ頂いてから風邪抜けたち言うなら良かけれども、そげな信心でどうするか!」っち私がもう、それこそ、もうお広前いっぱいに大きな声で私が久保山先生に喧しく言わせて頂いてです、とにかく有難いんです。ね。もう本当に私と久保山先生の仲がです、もう本当に私の信心をそのままそのままズバリにです、間違うとったら言えれるということ。これは正確で言うならもう16年でしょうか17年になりましょうか、私と久保山先生の仲にです、もうそりゃ様々な事もございました。けれども、もうこればっかりはです、もう、ほんっとに木の年輪が大きくなっていったように、私と久保山先生の仲というものが育ってきておるから、あれが言えるのであり、久保山先生もそれを、おぉ信心で受けられることが出けるのです。私は今日ほどそのことをいうっ、その、おぉ、ここから大きな声を出してから、もうそっ、もうそっ、あっ言い過ぎたなんて、いうようなこともありますけども、今日ばっかりは即有難かった。ね。
こういうように私と皆さんが育って行ったら、素晴らしいことだろうなということです。椛目に、とってです、久保山先生はもう無しにはできない、久保山先生。私の手に足に、場合によっては私の口になってもらわなければならない久保山先生。私の信心を裏から表から、一番知っておられるのは久保山先生。ね。もう他に類はなかろうと思われるくらいに、辛抱強い、意味合いにおいての久保山先生。もう順路狂いもない久保山先生。私はそれを数えて、ならまだ幾つもこうあると思うんです。ね。そういう風に、例えば私(?)に、影、日向のようにです、付いて来てもらわなければならない久保山先生なんだ。ね。そういう久保山先生にです、言わばえげつのうやかましく、言えれると、そういう言わば椛目には、とって、私にとって、なしなっ、おってもらわなければでけない久保山先生にです、それが言えれるということ。それが私はおかげであると。お互いの信心がです、ね、木の年輪のように、言わば何の虫も付くことも無しにです、傷が入ることも無しに育ってきておる私はおかげであって欲しいと思う。それをしみじみ考えた。ね。そのことを私今日、(?)しておったらですね、そりゃ見事なその(?)を頂くんですよ。ほんなこつ考えてみると、そんなに喧しくも、言うた、言うて、もう日々そうなんですけれども、ね、ほんに私と久保山先生の仲には、一つも溝が出けなかった谷が出けなかった、ね、それによって蝕んだというものが無かったということです。ね。
私と皆んさんと、なら言うならば、神様と私共の仲にでもです、ね、「もう金光様だけじゃなかもんなけん」と言うて、一時は辞めてまた信心にはじっ、始まったという人もありゃ、「先生があげなんこつ言うたけんで」と言うて、機嫌悪うして、一時信心を疎かにした人もあります。おかげを落としてです、もうそれこそおかげを落として、あれだけ良い信心しておった人が、おかっ、信心を一時中断して、また信心を続けておるといったような人もありますけれども、ね、そういう意味合いにおいてでも、私と久保山先生の仲にです、そういう物が育っておるということが私は有難いとこう思う。ね。どうぞ一つ皆さん、お互いの信心がですね、木の年輪が一年一年、輪を大きくしていくような、言わば、スムーズなと言うかね、素直な育ち方でおかげを頂いていかなければいけないなぁと、でなかったら本当のお役に立たないと私は思う。ね。切ってみたところが、割いてみたところが、芯が腐っておった、こい傷があったというのも、良い板が、言わば取れないということになっては、あぁつまらん。もうこの世あの世をかけてのこと。大事なことですから、その傷があの世にまで残って行くようなことであってはならんのですからね。信心はそういうようなところが、私は大事じゃないかと思うですね。おかげを頂かなきゃいけません。